旅情電波発信局

ホラーゲームや映画やその他諸々の好きな事を書き綴っていくブログです。たぶんゲームの話題多め。

ゲームは作家性が尊重されていないのか? 小野寺系氏のThe Last of Us Part II論に反論する

つい先日、Real Soundでラストオブアス2に関するこんな記事を読みました。

 

realsound.jp

 

【魚拓】【ネタバレあり】『The Last of Us Part 2』は、映画を最も震え上がらせるーー映画評論家・小野寺系が“問題作”の可能性を考える|Real Sound|リアルサウンド テック

文章変わるかもしれないので記事執筆時の魚拓も貼っておきます。

 

この記事に対して

 

とツイートしたところ、筆者の小野寺系氏に引用RTされまして、そこから長い議論になりました。
その一連のツイートが以下になります。
(引っ越し作業の片手間だったため、忙しくてところどころで変な文章を書いてしまっています。申し訳ありません)

togetter.com


僕はただゲームの作家性の話がしたいだけなのに、話があっちゃこっちゃ行って大変ややこしいのですが、やはり議論したうえで全然納得がいかなかったので、考えをきちんと文章化して反論したいと思います。

ゲームは作家性が尊重されない?

件の記事に対して色々と言いたいことはあるのですが、特に
・一本道だからこそたどり着いた境地
の段の下りです。以下引用。

 実際、本作に寄せられた批判のなかには、キャラクターが非道な行動をすることを止められず、強制的に殺しに加担させられることへの不満も多い。キャラクターの決断をプレイヤーにまかせ、複数の結末を用意するマルチエンディングにすべきだったという意見もある。

 だが筆者としては、本作の素晴らしいドラマと、考え抜かれた美しいエンディングを理解した後に、いまさらマルチエンディングなどを体験したいとは思わない。レベルの高い多くの文学作品や映画の脚本は、ドラマのあらゆる描写を結末と関連づけて描くものであり、読者や観客の気にいるラストを複数用意し、気に入ったものを選ばせるということは基本的にしないものである。そこには、作り手の意志を尊重する文化と歴史があるからだ。

 もちろん、マルチエンディングというシステムそのものが悪だというつもりはない。しかしゲーム作品では、このような意見が出てしまうことからも分かるように、比較的作り手の作家性というものが尊重されてないのは確かであろう。もっといえば、“芸術作品”として扱われていないということだ。

 

簡単に要約すると、
・ラスアス2ではマルチエンディングが無い事を批判する声が多い
・映画や文学で複数のエンディングが基本用意されないのは作家性が尊重されているからだ
・ゆえにゲームでは作り手の作家性が尊重されていない
という三段論法。


いや、映画でも脚本段階では二つ結末が用意されてて撮影中に話し合いで結末変わったり、あらかじめ二つ撮っておいて試写会で評判見てから差し替えたりとかあるんですけどね。
よくソフト化される時に映像特典で付いてくるやつ。
ぱっと思いつくところでは『ジェイコブスラダー』や『死霊のはらわたⅢ』や『バタフライ・エフェクト』や『ランボー』あたり。

文学で異なる結末が用意されていないという話に至っては、当たり前じゃんとしか言えないんだけど、まあいいです。

さて、ラスアス2が一本道なのが批判されている、ということなのですが、困ったことに自分にはそんな印象がありません。
ラスアス2が批判されているのって、主にストーリーやキャラ造形、過剰なポリコレ、アビーとかストーリーとかアビー、ついでにアビーが批判されているイメージです。


でもこういうあやふやな印象論で語るのが僕は本当に嫌いなんですよね。
ということで、実際にラスアス2が一本道で批判されているのかどうか、各種メディアのレビューと、Amazonレビューすべてに目を通して調べてみました!!!

 

www.switch-pub.co.jp

SWITCH ONLINEの記事。
称賛意見でとても興味深い、読む意義のある記事。
深く頷ける発言も多く、しっかりとした内容。
一本道への批判は当然無し。

 

automaton-media.com

Automatonのレビュー。
称賛してますね。一本道への批判はなし。

 

www.famitsu.com

ファミ通
一本道への言及は無し。

 

dengekionline.com

電撃オンラインのレビュー。
ストーリーにはあまり触れないで、ゲームシステムを褒めるレビュー。
賛否両論を集めそうな部分を避けて上手く書いたレビューだと思います。
誠実で、かつ嘘は書いてない、プロに徹した良いレビュー。
一本道への批判は無し。

 

game.watch.impress.co.jp

GAME Watchのレビュー。
一本道への批判は無し。

 

www.gizmodo.jp

ギズモード。
オブラートに包んだ表現が同情を誘うレビューですね。
言いたいことがすごくよくわかる。
たぶん筆者はもう一周してないんじゃないかな……。
一本道に関する批判はなし。

 

japanese.engadget.com

engadgetのレビュー。一本道に関する言及はなし。 

nlab.itmedia.co.jp

ねとらぼの称賛目線のレビュー。
一本道だからこその面白さがあると、肯定的な意見。

 

ascii.jp

アスキーゲーム。
肯定的なレビュー。一本道への言及は無し。

 

corriente.top

CoRRiENTE.topのレビュー。
一本道への批判は無し。

tokyo.whatsin.jp

What's IN? tokyoのレビュー。
きちんとプレイして書いてあるなーという印象。
文章から実直さが滲み出ているように感じます。

 

jp.ign.com

IGN Japanのレビュー。
基本的に辛口のレビューが多い印象のメディアですが、やはり批判寄りのレビュー。
でも誠実に書かれた素晴らしいレビューだと思います。
個人的にはゲーム内容について一番賛同できます。

 

メディアのレビューではないのですが、個人的に称賛側の意見の内、最も論理的でなおかつ興味深いと思ったものがこちら。

turqu-videogame.hatenablog.com

素晴らしい考察です。
今まで読んだ中ラスアス2肯定派の意見では、最も説得力がある文章です。
物語の構造の洞察としては一番深いところにあるのではないでしょうか。
まあこれを読んですらも、キャラ造形や細かいストーリー展開とか、もっと上手いやりようがあったんじゃないかとは思うのですが。
もう少し磨き上げていたら、ラスアス2は名作たりえたのだと感じました。

というわけで、メディア記事にはマルチエンディングではないことを批判する文章は(探した範囲では)ありませんでした。
本当は海外記事も探すべきなのでしょうが、自分の英語力では誤読する可能性があるのでやめときます。あと単純に時間がかかりすぎるので。

メディアの記事で一本道に対する批判意見がなかった以上、ユーザーレビューの方にあるに違いありません。
ということでAmazonレビューを見ていきます。

まず☆1のレビュー。
518件中、マルチエンドではない事への批判意見はわずか13件でした。
いやね、ここまで少ないとは思いませんでしたよ。
ちなみにこれ、「アビーを殺せたら良かった」というマルチエンドを所望するとも、ストーリー展開の不満ともとれる意見を、乱暴にマルチエンドが無い事への批判ととらえて大目に見たうえでの数字です。
ちなみにストーリー展開への不満は518件中204件でした。
圧倒的にシナリオ展開が叩かれている……。
「鬱展開がイヤ」みたいなストーリーが重いことに対する不満は除外しているので、実際はもっとシナリオ全体への不満は多いです。
あくまで「シナリオ展開が雑」みたいな意見だけカウントしています。
あとポリコレ表現への不満は90件ありました。
これは「レズ同士のキスが気持ち悪い」のような、性的マイノリティへの誹謗中傷もカウントしてます。
予想以上に多くてびっくりしましたね。
アビーが嫌い、って意見は集計しませんでした。
「アビーが嫌い」と「アビーを操作するのがイヤ」という意見を分けるのが面倒だったし、キャラ造形への批判が(おそらくアビーへの不満だと思うけど)アビーに対するものかわからないので集計が面倒になったので。
でもアビーと名指しされたものだけでも100件以上は優にあったと思うな。

次に☆2のレビュー。
248件中
、マルチエンドじゃない事への批判は2件でした。
あのさぁ……。
ついでにシナリオへの不満は110件、ポリコレ批判は40件でした。
意外と同性愛描写が苦手な人が多いなと、改めて感じます。
ラスアス2の場合、同性愛描写は何とも思わないけど、流石に過剰すぎて説教臭いという意見が多かったりはするのですが。
自分は同性愛描写に何とも思わない(というかリアルにゲイの知り合いがいたりするので普通)のですが、“劇中の書店でレインボーフラッグを見た時のエリーとディーナの会話”は流石に蛇足なんじゃないかと思いましたね。
ギャグとしても滑ってるし。
当然ながら「アビーに感情移入できない」「アビーが嫌い」もかなり多いです。

次に☆3の……と行こうかと思いましたが、もうこの時点ですら批判意見の約2%しかマルチエンドが無い事への不満がないってことが判明しているので、集計する意味がないから切り上げます。
Amazonレビューを総合すると一本道である不満は1%ほどの割合になるんじゃないでしょうか。
☆5の478件は不満点が無い人達ですし。
ところでAmazonレビューは☆5が478件、☆1が518件あるのに、パーセンテージ表記だと☆5が34%、☆1が28%で数が合っていません。
削除されたレビューの件数と関係があるんでしょうかね。


事のついでにシナリオが一本道でかつジャンルと発売年が比較的近いDays GoneのAmazonレビューもチェックしましたけど、一本道だからって特に批判されてたりはしませんでした。

ゲームでマルチエンディングじゃないこと全然批判されてねーじゃん!!!
幻覚か妄想じゃん!!!!

 

というか、前作がマルチエンディングないゲームだったんだから、ラスアス2をやる人の大半はマルチエンディングなんて期待してないでしょ!
少なくとも前作やっててマルチエンディングが無いって怒るやつは知能がアビー。


・・・・・・もう前提条件が崩れてるのでここで切り上げてもいいんですが、百歩譲って、もう少し考えましょう。
まさかプロのライターがメディアに書く文章が、妄想で適当なことを書き散らしているなんてことがあるはず無いからです。

本当にゲームは作家性が尊重されていない?

ゲームは作家性が尊重されていないのか?

まず作家性という単語自体が曖昧にすぎるのできちんと定義して欲しいのですが、漠然と“個人の作風”という意味で使っていると捉えて話を進めます。
じゃないと話が進まないからね。

これは普段からゲーム遊んでる人なら一発で間違いだとわかります。
例を挙げようと思えばキリがなく出てきますが、MGS2小島秀夫氏、シルバー事件須田剛一氏、Deadly PremonitionのSWERY氏、Motherの糸井重里氏などなど、作家性が評価されているゲームは山ほどあります。
あ、偶然にも代表例で挙げたゲームは全部マルチエンディングじゃない一本道のゲームですね。

国内のビデオゲーム黎明期から遠藤雅伸氏やMTJこと三辻富貴朗氏など、作家性が語られるゲーム制作者も多数いますしね。

とはいえ、ゲームは映画に比べて作家性が出にくいジャンルではあると思います。
簡単に言えば、映画とゲームで全然製作体制が違うし、それに応じて受け手側の監督の重みづけが慣習的にも違うから、という理由です。

ゲームだとパッケージに開発会社は書いてあっても、ディレクターの名前はあまり書いてないですよね。
ゲームソフトはあくまで会社の製品として扱われるものですから。

ゲームがプロダクトであるという事実を別にしても、ゲームで作家性が出にくい理由はまだあります。
その一つを説明するのに、ちょうどいい記事があったので貼っときます。

www.famitsu.com

さて、この記事を読んだ後で、『メタルスラッグ』の作家性が誰に属するか、なんて決められますか?
緻密なドット絵、絶妙な難易度、軽快なテンポ、メタルスラッグ搭乗時の爽快感、音楽や効果音、どの要素が欠けてもメタルスラッグメタルスラッグ足りえません。
ゲームはゲームのシステム、グラフィック、ゲームバランス、ストーリー、音楽、各々の要素が複雑に相互作用しあって出来ています。 
ゲームシステムが脚本と噛み合ったり、アクションとエフェクトや効果音がマッチしたりすると傑作として評価されたりするわけですね。
どの担当スタッフの影響が一番大きいかなんて議論するのは不毛にも程があります。
(ラスアスのような物語重視のゲームと比較するべきでは、との声もありそうですが、小野寺氏との議論の中でこのような発言があったので、一般化して話しています)


ゲームの場合、開発規模やら開発環境やらでマチマチすぎて一概には言えませんが、特に大手のゲーム会社では、細分化が進んでいて誰の作家性なんて言えるような状況自体が少ないのです。
そもそも、映像+音楽の映画より、ゲームプレイ+映像+音楽で次元が一つ増えてる時点で複雑度が増えてますから、全体に作家性が影響を及ぼしにくいのは普通に考えたらわかる話です。


更に言えば、ゲーム分野は技術の発展が目覚ましすぎるという理由もあります。
ビデオゲーム黎明期はゲームディレクターという役職がないくらい開発が少人数で済んでいました。
それがあっという間に開発規模が膨れ上がり、全体をディレクションする必要性が高まってきます。
ゲーム開発を誰かがディレクションするという開発体制自体が、後からついてきたものです。
最初から監督制だった映画分野とはこの点が大きく異なります。
(とはいえ、ゲームディレクターの作家性がゲーム全体の作家性となる場合がどれほどあるか判断するには、慎重な姿勢が必要だと思います)

映画だってスタッフが大勢関わるだろう、と反論されるかもしれませんが、映画では監督の権限がゲーム制作に比べると大きいです。
というか、元々監督制の製作体制で始まった分野なので当たり前の話です。
はなから成立の経緯が違います。
ですから、映画の場合は〇〇監督作品と必ずクレジットされて公開されます。
撮影に至るまでの段階で監督が指示を出し、コントロールをすることが可能ですし(様々な事情はついてまわりますが)、シーンを撮り終わってからの編集作業で調整することもできます。
映画が編集で全然違ってたりするのは映画あるあるですね。
『ゾンビ』の各verとか見比べたりするとよくわかります。

反面で例え様々な事情で監督の思い通りに作品が完成しなかったとしても、責任を監督が一身に負うリスクがあります。
あまりにも横やりが入って、監督の意向とは似ても似つかない作品が完成したときは"アラン・スミシー"名義にして誰が監督したかわからなくする映画もありました。
(ヘルレイザー4とか。今はアラン・スミシー名義は使わないらしい)

実際のところは、例えば「映像美が素晴らしい映画」として評価されている作品は、監督ではなく撮影監督の寄与が大きかったりと、出来上がった作品だけ見てる外野からはよくわからない内部事情があったりもするんですが、雑に全部監督の功績にひっくるめて評価されているのもよく見かけます。
反対に、監督より上位の権限を持つプロデューサーやスポンサーに口出しされてめちゃめちゃな内容になったりしても監督の責任だったりと、裏話まで聞くと悲喜こもごも。
(なので映画の話をするときはなるべくオーディオコメンタリーを聞いたり、各種インタビューを追っかけたりして調べたほうが無難です)
映画では慣習的に監督の作家性が大きめに評価されている側面もあるんじゃないのかな、というのは個人の印象です。

 長々と書きましたが、いろいろひっくるめて言ってしまえば、ゲームと映画の作家性を比較するのは全く持ってナンセンスとしか言いようがありません。
きちんと取り上げるならば歴史を含めた慎重な考察態度が必要な分野ですし、ラスアス2のレビューついでに軽々しく語るような浅い話ではないです。
上で書いてきたことも、色々と省略したり、複雑な事情をあえて触れずに書いてたりするので不精確ですが、そこはご容赦いただきたいです。
ただ、きちんと書くならば、個人のブログでロハで書くような内容ではないということは確か。

 ですが難しいことを考えなくても、インディーゲーム市場を見れば作家性の強いタイトルがいくらでも溢れかえっているのは一目瞭然。
しかもゲームは映画と違いインディーズ作品が市場に並ぶまでのハードルが低く、インディーゲームは作家性を見せつけやすいジャンルではないかと思います。
少人数で制作も可能ですし、存分に作家性を発揮することができます。
まあ、Steamかニンテンドーe-shop見てたら、こんなん読むまでもなく知ってることですよね。
もちろん芸術作品を目指したゲームもふんだんにあります。
尖ってるやつだとThe Graveyard

老婆が墓地を歩いて死ぬだけ、というゲーム。(死なないエンドもある)
ゲームかこれ?と物議を醸したタイトルです。
マルセル・デュシャンの『泉』を彷彿とさせる、ゲームの限界に挑戦するダダイスムを体現したかのような作品。
ラスアス2を革新的で芸術的だ!と評価する方には、ぜひ購入して欲しいですね。

 

シナリオを批判する人は理解が及んでいない?

ところでラスアス2のシナリオを批判しているのは、シナリオの真意に気づけない無理解な人たちなのでしょうか?

自分は違うと思います。
アビーとエリーの対比はわかりやすいですし、アビーとジョエルの対比は、前作プレイヤーなら気づきやすいポイントでしょう。
多くの人はそれをわかった上で、ラスアス2のシナリオを批判していると考えます。

そもそも、アビーとジョエルの対応についてはプレイしている段階で開発者が狙っているのは気づいていたのですが、レビューでは触れませんでした。
なぜかというと、きちんと対比できてないからです。
ぶっちゃけ、共通点が
・年の離れたコンビである
・年少側が性的マイノリティである
ぐらいしかありません。
前作のエリーと違って、アビーにとってレブは庇護しなきゃならない対象でもないですし、家族の影を投影するような間柄でもありません。
更に言えば、アビー編でも(プレイ時間的に)レブと一緒に行動する時間が短かったり、アビーがレブたち姉妹を気にかける理由がやや不自然だったりと、レブを仲間と認定する流れが心情的によくわからないんですよね。
アビーは命の恩人だからといって気にかけるような、義理堅い性格にも思えないですし。
(事実、命の恩人でもあるジョエルは仇とは言えど迷いなく殺しているし、アニーが死んだ時もさほどショックを受けていない)
だから開発者の意図しているであろうアビー=ジョエルの図式が出来ているようで弱い。
レブを人質に取られたアビーがエリーと戦う場面も、ナイフを持ったエリーがボート傍に立っている時点でレブを助けるor助けないに関わらずエリーと戦わなければボートに乗れない状況です。

前作の終盤でエリー(≒娘)の命を助けるか、ワクチンのためにエリーを見殺しにするのかの図式になったジョエルとは似ても似つきません。
対応させているようでできていません。

仮に、千歩譲ってアビー=ジョエルの図式が完璧に成立していたと仮定しても、もう一つ重大なシナリオの欠陥があります。
エリーとアビーの邂逅時間が短すぎて、アビーとレブの関係性を普通に考えればエリーは理解できていないであろう、ということです。
アビーとレブが一緒にいるところをエリーが見るのは、劇場エントランスでアビーと話すシーン、アビーとの決着シーンでディーナが射抜かれてからアビー退場まで、磔になったアビーを下ろしてからアビーを見逃すまでの僅かな時間しかありません。
総計でも10分も無いんじゃないですかね……。

まあトミーが持ってきた情報でずっと一緒に行動していることと、ボロボロになっていても一緒に連れ出そうとするほどには大事な仲間であることぐらいはわかるかもしれません。
ですがエリーの胸中でアビー=ジョエルだ、だから復讐を止めよう、と判断させるにはあまりにも無理があります。
シナリオの構造的にはエリーが復讐をやめる理由はそれぐらいしかありませんが、常識的にエリー目線で考えると不自然極まりないのです。
シナリオライターがエリー目線での情報と、神(プレイヤー)視点での情報を混同しているとしか思えません。

※余談ですが、アビーが劇場に乗り込むシーンもキャラ目線だと不自然です。あの時点でアビーはトミーとしか出会っていませんし、トミーとは水族館付近で交戦します。普通ならあの後水族館に辿り着いたトミーがオーウェンとメルを殺したと判断する方が自然ですし、事実トミーはジェシーの助けを借りつつも水族館に辿り着いています。
ですが、トミーに対して「このクズども!」と吐き捨て、エリーに対しても「みんなを殺した。見逃してやったのに・・・ 全部ぶち壊した!」と言い放ちます。まるでエリーが仲間を殺したことを知っているかのよう。
トミーに対して「このクズども!」と言うのは、トミー達が複数で来ていることを予測していたからだ、と思われるかもしれませんが、そうするとトミーの仲間が水族館近くにいることを予期しながらオーウェンとメルの元に引き返さなかったことになって、これまた不自然です。
流石にあの時点ではレブよりオーウェンの方が大事でしょうし、心情的にも状況的にも矛盾するシーンになってしまっています。
おそらく神視点とキャラ視点を整理できていないのでしょう。シナリオきちんと推敲して欲しい……。


小野寺系氏に強く言いたいのは、ゲーマーのシナリオ考察力を舐めている、ということ。
ラスアス2は確かに解釈の難しい物語ですが、この程度だったらゲーマーはついていきます。
BloodborneやらSIRENやら、読み解きの難しいシナリオをああだこうだ言いながら考察するのもゲームの楽しみなんです。
むしろ難解な方が、コミュニティは盛り上がるかもしれません。
それなのに大量にシナリオで低評価がついている。
普通に考えたら、シナリオの対比構図に気づいた上で低評価がついていると考えた方が自然です。
暗いストーリーだから駄目って人も一定数いますが、救いがないストーリーでも完成度が高ければ絶賛されます。SIRENとかいい例。

実際ラスアス2は解釈しようと深く考えるほど、矛盾点や不自然な点が出てきて解釈不能になっていきますしね。
特にエリーとディーナの愛の安全農場の納得いく解釈をした人は教えてください!

だからラスアス2のシナリオについた低評価は、やっぱりシナリオの完成度が低いから付いた順当な物だと思うんですよね。
やろうとしてることはわかるし、上手くいけば良いシナリオなんだろうけど、気配りが足りていない。

アビーが感情移入しやすい性格の良いキャラだと不都合になる理由、誰か説明できますか?
シナリオの意図にアビーの性格の悪さって全然関係してませんよね。
じゃああえて感情移入させない意味って何?
シナリオの瑕疵だと考えるのが普通じゃないですかね。

 
一万歩譲ってラスアスのシナリオが完成度高かったとしても、AAAタイトルで一部の人間しか理解できないシナリオ展開するのは普通に失敗作だと思うんですよ。
半数近くがシナリオにしっくり来てない時点で売り物として駄目。
市場とニーズを理解できてないってことですよね。
挑戦的であることを評価するにしても、初めての有人飛行に挑むライト兄弟と、清水の舞台から飛び降りる挑戦には天と地ほどの差があるでしょう。
ラスアス2は後者。上手くいっても何も良い事がない。

ラスアス2は映画を脅かす芸術作品?

ラスアス2は映画を脅かす芸術作品なのでしょうか?
自分にはそうとは思えません。
シナリオの出来が悪いことは散々述べましたが、それとは別にもう一つ大きな問題を孕んでいます。

むしろラスアス2があるからこそ、ゲーム業界は映画的なゲーム制作に及び腰になるのではないかと思うのです。 

確かにラスアス2は映画的な映像表現としては現時点で最高峰のゲームです。
キャラの表情、肌の質感、揺れる木々、踏みしめる雪、素晴らしい映像美の数々。
ですが、それらを実現するには膨大な開発時間と莫大な予算が必要なこともまざまざと見せつけてくれました。

そしてそれだけの映像的完成度を誇りながら、ユーザーレビューは皆さんご存じの通りの大荒れ……。
今後はリスキーすぎてAAAタイトルを作ろう、出資しようという動きが萎縮するのではないかと思っています。
コロナ不況も重なってますしね。
もはやラスアス3が出るかどうかすら怪しい。

www.gamespark.jp

ゲームスパークの記事ですが、ラスアス発売直後にこんな発言も飛び出しています。

とにかく写実的な映像表現の行きつくところまで行ったなという感はあって、もちろん今後も映画的なゲーム自体は出るでしょうが、その数は少なくなるでしょう。

仮にラスアス2に影響されて似たようなことに挑戦しようとすると、技術的なブレイクスルーが無い限りはラスアス2と同じかそれ以上の予算と期間が必要なわけですから。
加えて写実的であることをウリにするためには、ラスアス2を超えないとセールスポイントにならなくなったということでもあります。
むしろ普通に映画で撮った方が安上がりまであるんじゃないでしょうか。
もはやラスアス2ぐらいまで来ると、実写でよくね?の境地に行ってしまってるんですよね。
ラスアス2はあえて感情移入させない事がすごい!という意見もチラホラ耳にしますが、ならなおさら実写でよくね?
自分で操作することによる没入度の高さがゲームの特徴であり強みだと思ってるんですが。


ところで、別に映画のようなゲームを目指すというのは、ゲームでは大して珍しい流れではありません。

実際、第5世代ゲーム機時代にゲームの容量が増え、映画的なゲームを作ろうという動きが活発な時代がありました。
中古屋に行ったら棚に安価で刺さってる実写ムービーゲームあるでしょう?それです!
それ以外にも、例えば初代バイオハザードが英語音声・日本語字幕なのは映画を意識してのことだったような……(これはソースがどこだったか忘れたので参考程度に聞き流してください)
とにかく、一つのお手本としてゲームが映画に近づこうとしてた時期があったんです。

そして試行錯誤の結果、結局「やっぱりゲームは映画ではない」ということで、次第に映画的なゲームを作ろうという熱狂は薄れていったような印象があります。
映画みたいなゲームってだいたいムービー多くてテンポ悪いんですよね。
今ではゲームにしかできない表現、遊びを追求しようという流れの方が強いと感じています。

つまり何が言いたいかというと、いまやほとんどのゲームは映画や文学はあまり相手にしていないんですよね。
戦う土俵がまるで違っている。
もちろん映画と戦ってるようなゲームも少しはあって、その最たるものがラスアス2なんですが。
あ、ノベルゲームはそのうち文学と戦うかもしれません。

第一、文学・映画・ゲームと得意な表現がまるで違うのに、ゲームが映画を脅かすとか、文学に迫るとか、そういう価値観自体がナンセンスで貧相。
ゲームはゲームのままあって、ゲームとしての芸術を目指すのが筋だと思いますね。

 

だからラストオブアス2は ある意味で保守的なゲームなんですよ。
ゲームが映画に憧れを抱いていた時のゲーム。
新しいことをやっているようで、その実挑戦しようとしていることは古い。

ゲームシステムも7年前の前作をほぼそのまま踏襲しているし、シナリオとオプション設定以外は特に目新しい事やってないんですよね。
シナリオだって、それこそラスアス2を語られる時によく引き合いに出される『ファニー・ゲーム』のほうが完成度高いことやってますし。

ラスアスがエピックでゲーム史に影響を与えたタイトルなのは確かでしょう。
これはちょっと調べてみないとわかりませんが、クラフト要素のあるTPSorFPSがラスアス以降に増えたような気がします。
調べてそのうちブログネタにしようかな。

しかし悲しいかな、いまやラスアス2はゲーム的にはよくある普通のTPSになってしまいました。7年前とゲームシステムがほとんど変わっていませんから。
むしろナイフ作成がなくなったせいで、サバイバルホラーとしてゲーム性が落ちたまであります。
シナリオは一見深そうで単純に出来が悪い。
果たしてそんなゲームに芸術的価値がありますかね?
少なくとも印象派キュビズムになぞらえられるような物では無さそうです。

充実のオプション設定はすごいですし、後のゲームに影響を与えるとしたらここかな、とは思うのですが、芸術的な評価点とは程遠い気がします。

 
あと、これはホラーゲーマーとして言わせてほしいこと。
「ラスアス2はあえてプレイヤーにあえて不快感を与えている。ゲームは爽快感を与えるものという既成概念を打ち壊している。これこそ芸術的だ!」みたいな評価をたまに聞くんですが、それ普通のホラーゲームが意識しないでやってることです!!
むしろホラーゲームはプレイヤーが投げ出さない程度の不快感と恐怖をじわじわ与えることに挑戦する分野なので、とても高度な技術に挑戦し続ける魅力的な分野なんですよ。
だからみんなもホラーゲームもっと遊びましょう。

セスはポリコレ批判者への隠喩?

 

 付け加えとなるが、本作でのLGBTについての表現に対し、「ポリコレへの配慮のし過ぎ」だという、程度の低い批判も存在する。作り手たちはその反応を事前に予期しており、劇中でエリーとディーナのキスする様子を見て文句をつけ出す保守的な男性を登場させている。その姿が批判者そのものの姿である、という皮肉に気づくべきだろう。

 

この記述も大変気になるところ。
いや、ポリコレ批判をする気はないんですよ。
LGBTが出ることに何の不満もないので。
ただ、ポリコレ批判者への皮肉としてこの場面を挙げることにすごく疑問があるんですよね。

なぜかといえば、“保守的な”セスという男性は、この後エリーに謝罪をしているからです。
それもお詫びの品で豪華なステーキ入りのサンドイッチを携えて。
しかし当のエリーは真面目に謝罪を聞く気がありません。
それどころか、貰ったサンドイッチをジェシーに押し付ける始末。
普通に態度悪くてエリーにイラっとする人も多いのではないでしょうか。
自分もちょっと嫌でした。

更に言えば、セスがパーティーでエリーとディーナに怒った理由は“家族の前で二人がキスをしたから”です。
レズビアンのキスが気に障ったのか、性別関係なしにキスという性的な行為を咎めたのか、シーンからは判別がつきにくいところ。
このあとディーナに嫌味を言われ、咄嗟に「口達者なレズとはね」と言い返しますが、ディーナも割と酷いことを言っていて、なんだかおあいこのような気がします。

ともあれ、セスは翌朝一応謝罪をしています。
(その場にマリアがいますが、マリアに言われてセスが渋々謝罪しているのか、それともどうせ謝罪を聞かないであろうエリーをとりなす為にいるのかは、状況からだと判別が難しい)
で、このセスがポリコレ批判者の隠喩だとしちゃうと、ポリコレ批判者は謝罪して態度を改めても許されないとか、ポリコレ批判はジョエル殺害より重い罪である(アビーは許されてセスは許されない)とか、もっと言えばエリーはレズビアンの隠喩だからレズビアンは短絡的で血の気が多いという皮肉だとか、どんどん酷い解釈ができてしまいます。
(セスを一方的にポリコレ批判者の隠喩だとしといて、エリーはレズビアンの隠喩だというのを否定することは出来なくなりますよね) 

ちょっと触れるのが微妙なラインのセスを挙げてそれっぽいことを言うより、もっとうってつけの集団がいるじゃないですか。
トランスジェンダーであるというだけでレブとヤーラを殺そうとするセラファイトの集団。
それにレブはラスアス2に珍しく良い子なので、LGBT側の立場を悪くするような事もなさそうです。
彼らをポリコレ批判者の隠喩だとした方が、ずっと綺麗に収まると思うんですよね。
セラファイトを差し置いてセスのほうに言及する理由が、ちょっと自分には思い当たりませんでしたね。
何か深い理由があるんでしょうかね?

作品の根幹設定ぐらい把握してから文章書いてください

 最後に一つ。

小野寺系氏はラスアス世界での感染症がウイルスによるものだと書いていますが、正しくは真菌です。つまりキノコ。
ウイルスと真菌は似ているようで全然別物です。
真菌が原因だとゲーム内で拾えるテキストでも説明されているのですが……。
作中で何度も「胞子が飛んでる」「胞子を吸い込むと感染する」という描写があるのですが、書いてて不思議に思わなかったんですかね。
前作のロード画面でも胞子飛んでますしね。
まさかYoutubeのムービー集だけ見て文章書いてるなんてこと、ありませんよね?
ウイルスと真菌を区別できないのなら、勉強して見識をもっと広められた方が良いと思います。

更に言えば、ゲーム中では大きな子実体(いわゆるキノコの部分)を形成した敵や死体が数えきれないぐらい登場します。

f:id:denji_ch:20200805211921p:plain

胞子をまき散らすようになった死体。作中で山ほど出るのだが……

クリッカーの目が見えない理由も、子実体が頭を突き破り目を塞いでしまうからなんですけどね。
小野寺氏にはもっと“映画のようにシーンをよく見て”考えて欲しかったですね。