旅情電波発信局

ホラーゲームや映画やその他諸々の好きな事を書き綴っていくブログです。たぶんゲームの話題多め。

ドラクエ知らない人から見て『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』はどんだけ駄目だったのか

今評判の、映画を観てきましたよ。ええ。

dq-movie.com

話題に乗り遅れた感はありますが、せっかくなので思った事を書いておきます。 

自分のスタンスは
ドラクエナンバリングタイトルを一切遊んだことない(DQモンスターズはやってる)
・事前にある程度のネタバレを踏んでた
DQ詳しい友人と観に行って、鑑賞後に原作との差異を教えてもらった
・あんまりアニメ映画は観ないが、年間100本位は映画を観る
みたいな感じです。


そういう視点から見てドラクエ映画どうだったの?っていうのを語っていきたいと思います。

この映画の事を語るには、どうしてもネタバレ必須だと思うのでネタバレします。
よってネタバレ注意です。

 

 

 

途中まではドラクエっぽい映像のダイジェストムービー

 まず映画が始まって驚いたのが、ファミコン風フォントでざっと世界観の説明が入り、SFCのゲーム画面で幼少期のダイジェスト映像が始まること。

もうこの時点で、「ゲームのドラゴンクエストⅤを知らない人はふるい落とす気マンマンなんだなー」って若干気持ちが冷めます。 

そもそも、物語は導入が死ぬほど大事です。
登場人物に感情移入できるか、世界観が伝わるか、リアリティラインはどこらへんに設定されているかetc...と、映画に没入できるかどうかがここで左右されるくらいに大事な箇所なんですが、それをテキストとゲーム映像に丸投げというのはどうにも……。

もはやそこかしこでネタバレされているので書いてしまいますが、この映画は
「全部ドラゴンクエストVRの中のお話でしたー!」
メタフィクションオチです。

好意的に解釈すれば、ゲームオチに向けての布石とも取れますが、それを知りようがない初見時だと混乱します。
また、シーン同士も断片的すぎて、完全に初見勢には優しくない。
少なくともドット絵から誰が誰なのか判別できる程度には知識を持ってないと、前提が把握できない構成は、物語の説明として駄目だと思います。
しかもここでダイジェストで説明される場面が、物語上で重要な場面なんですよ。
主人公の生誕、ビアンカ・フローラとの出会い、ゲレゲレを名づけるシーン、最終局面の鍵となるドラゴンオーブ入手など、それちゃんと描けよ!となるシーン目白押し。
尺の都合なのはわかるけど、もっとちゃんと印象付けとかないと駄目じゃないかと。

SFCダイジェストが終わり、フルCGの本編が始まりますが、ここからも怒涛のスピード展開。
ヘンリー王子は自己紹介するやいなや攫われ、パパスはあっという間に敗れて散り、奴隷として働かされた10年間があっというまに過ぎたと思うと、神殿からはあっさり脱出します。
リュカとヘンリーはプサンに助けられ、なんとかそれぞれの故郷へ帰り着きます。
ここでヘンリーと別れ、以降最終局面までヘンリーとの再会は待たなければなりません。

駆け足すぎて、物語を追えはするけれど、人物に感情移入する暇はありません。
事実関係の整理をするのがやっと。
パパスとどんな親子関係だったのかもわかりませんし、リュカとヘンリーは奴隷時代に数多の苦難を共にしたのでしょうが、それは観客には伝わりません。
なんか出会ったと思ったら、良い雰囲気だけ醸し出して別れます。
・・・・・・ぶっちゃけヘンリーの存在要ります?
もうとにかく尺が無いんだなと、延々と流れるダイジェスト映像ラッシュで制作側の苦労が早くも偲ばれます。
ここらへんでドラゴンクエストⅤを知らない自分にさえ、
「なんでDQⅤを原作にしたんだろう?????」
と疑問符が浮かび始めます。

故郷に帰りついた主人公は我が家でパパスの従者であったサンチョと再開します。
ここで父パパスのことや、天空人である母の話、ゲマの目的など、物語の根幹となる話を聞きますが、まくしたてるように会話でほとんど説明されてしまうんですよね。
映像媒体の強さって視覚的な説明のわかりやすさだと思うのですが、やはり尺が足りなさすぎて(あるいは予算・納期の問題かもしれませんが)、言葉で説明せざるを得なくなっている。
悪い意味でいかにもドット時代のゲームのような説明台詞だと思いました。
説明テキストを朗読してるようにしか聞こえません。

多少は仕方ないのかもしれませんが、映画媒体の優位性ってなんだ?という気持ちにさせられてしまいます。


サンチョが回収していたパパスの剣を受け継ぎ、サラボナに向かい旅立つリュカ。
冒険での苦難の数々が、やはりダイジェスト映像で流れます。
ここまでずっとダイジェストみたいな映像しか観てない・・・・・・。
ゲレゲレとも再会しますが、特に大したドラマもなく、
「あっよく見たらゲレゲレじゃ~ん!」みたいなノリで終わります。
それでいいのか。本当にそれでいいのか!

その際、ドラゴンクエストで良く聞く曲こと、序曲が流れます。
序曲は良い曲なのでちょっとテンション上がったのですが、音楽切るタイミングがおかしい。
冒険の末に辿り着いたリュカの眼前には、ブオーンによって荒廃したサラボナの街が映ります。序曲がまだ流れ切らないうちに。
せっかくテンション上がってたところに水を差されるような気持ち。
ついでにここで書いちゃいますが、この映画での音楽の使い方は本当に下品。
これ流しときゃテンション上がるでしょ?みたいな感じでなんとなく使われてるかんアリアリで、序曲は数回流されるし、良い音楽でも使いどころだな、と考えさせられます。
曲自体は良いんですけどね・・・・・・。

さて、サラボナの街では、いよいよビアンカ・フローラとの再会&結婚があります。
宣伝でもフィーチャーされてましたし、映画での扱い方から言っても山場の一つとなるイベント。
ようやくお出ましの両ヒロインなんですが・・・・・・
演技下手じゃない???????

フローラもビアンカも、喋った時はズッコケそうになりました。
邦画の悪習ですよ。何も考えずジブリの真似しちゃ駄目ですよ。
タレントでも上手い人いるのに なんでよりによってこの人選なのか・・・・・・。

最近のアニメだと『プロメア』もタレントを声優起用していますが、みんな上手すぎて本職声優となんら遜色ない演技を披露しているというのに、かたやDQ YSときたら・・・・・・。『プロメア』はめちゃめちゃ良かったのでみんな観てくれ。

意識が飛びそうなくらい酷い演技を抜きにしても、フローラの顔がブタ鼻で気になる・・・・・・。気にならない?
 賛否両論あるモデリングですが、ビアンカもフローラもなーんか鼻が上向いていて気になる。鼻フックフェチは満足かもしれません。

 

 映画では、ブオーンを倒したらフローラと結婚できてオマケに天空の剣が付いてくる!という設定になっています。
酒場でたまたま再会したビアンカに、半ば振り回される形でリュカはブオーンを倒し、そのままフローラにプロポーズするのですが、フローラはどこか浮かない様子。

フローラは実は主人公が心の底でビアンカに惹かれていることを察知していたのです。
そこでフローラは老婆に化けて主人公に接近し、「自分の心の底の気持ちがわかる薬」を渡してきます。

その薬を飲んだ主人公は、ビアンカへの気持ちに気づき、自分からプロポーズしたフローラへの婚約を破棄して、ビアンカに求婚します。

これは終盤にわかる情報なのですが、実は主人公(現実世界のプレイヤー)は元々ビアンカ派でいつもビアンカと結婚するのですが、今回のプレイでは気分を変えてフローラと結婚しよう!と自己暗示プログラムをかけてからプレイに臨んでいたことが描写されます。
つまり、リュカが最初フローラに惹かれていたのは、ゲームの中の自己暗示プログラムによる作用だったのです。
ですが、フローラの渡してきた薬は、そんなゲームの仕様である筈の自己暗示プログラムを無効化してしまいます。

ここが本当に不可解で、仲間のスラりんとラストに登場するミルドラースを除いて、フローラ1人だけがゲームの枠組みを超越した存在になってしまっています。
ゲームの向こうのプレイヤーの本心を見透かしたり、自己暗示プログラムを破るアイテムを所有していたりと、明らかに逸脱しています。
スラりんとミルドラースは外部からの介入者であることが発覚するのでともかくとして、フローラがこのように描かれているのは非常に不可解。

本来、このような重大な設定は後々の伏線として機能する・・・・・・のが普通ですが、
この映画ではこれ以降特に説明もありません。
えぇ・・・・・・。

こんな逸脱した性質を持ちながらも、単に「自分もリュカの事が好きでいながらも、リュカの本心を慮って身を引く都合の良い優しい女性」というキャラ付けのためだけにしか機能していないのです。
明らかに物語の構造上の欠陥。
あまりに不自然なので、深い裏設定でもあるのかな、と考察しようとするたびに
「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」
って内なる声が囁くんだがどうしてくれる。

しかも、結婚イベント終わった後にフローラ出てきませんからね! なんでやねん!

そもそもの話、ビアンカもフローラもポッと出で結婚だなんだという話になるので、DQⅤやってない勢だとどっちと結婚しようがわりとどうでもいい気分になってます。
尺なさすぎて、どっちが好きみたいな感情が起こらないんですよね。
ビアンカとの幼少期の冒険とか、俺見てないし。知らんし。
この辺なんか特にゲームやってないと補完がしんどい場面だと思います。
(ただ、一緒に観に行った友人の談では、ビアンカの性格がゲームと違いすぎて別人にしか思えなかったと嘆いていました)

 

めでたく(?)リュカとビアンカは結ばれ、子供が生まれますが、その過程もダイジェスト映像で流されます。
なんかほとんどダイジェスト映像しか見てないんですが!

 子供が生まれるやいなや、サンタローズの街にゲマ率いる魔物たちが襲来し、リュカは石にされ、ビアンカは攫われます。
子供・アルスは辛くもゲマ達の手を逃れた後、8年の後に石化したリュカを助け・・・・・・という風に展開していくのですが、この辺からは戦闘シーンが多くなるので普通にそこそこ面白く観られます。

モンスターのCGはこの映画で手放しに褒められる数少ない評価点ですが、個人的には妖精に会いに行く試練の時に遭遇するキラーマシンの造形は特に良いですね。
DQⅤじゃなくてバトル多めのドラクエ映画が観たかったなあ。

ですが、ここらへんでキャラクターの口から唐突に「今回はこういう設定なんだ」と、メタな台詞が飛び出し、劇場内に不穏な空気が漂い始めます。 

事前にオチのネタバレを知ったうえで観に行っていたのですが、まさかこれで伏線を張ったつもりか!?と唖然としました。
そのぐらい唐突なんですよね。
何も知らなかったら、聞いた時にきっと嫌な汗が流れたと思います。

なんやかんや試練を乗り越えつつ、マスタードラゴンプサンの手を借りてゲマの元へ辿り着いた一行を、魔王軍の大群が取り囲みます。
あわや、多勢に無勢・・・・・・というところでヘンリーが軍勢を引き連れて助太刀に来るのですが、ここ、助けに来るのがヘンリーじゃなくてフローラにしとけばヘンリーの出番カット出来て尺を稼げたのでは?って思ってしまいました。
全体的に存在意義の薄いキャラや、あまり必要性を感じない展開が多くて、困惑します。
原作を知らなくても、パッチワークのような物語だなあと感じてしまって、イマイチ作品に没入ができません。


とはいえ、この総力戦は王道でなかなか熱い場面だと思います。
親子の力を合わせてゲマを倒すシーンは素直にかっこいいと思いました。
ここで終わっとけばなあ。
ここで終わっとけばなあ・・・・・・。

驚愕のラスト!最後の10分は目が離せない!

 
さあ問題の場面。

ゲマの悪あがきによって魔界の門が開いてしまいます。
その瞬間、リュカ以外の全てのキャラクターの動きが止まり、音すらも消え去ってしまいます。
そしておよそドラクエの世界観からは程遠い、よくわかんねえデザインのサイバーなカオナシみたいなミルドラースが出現します。
ミルドラースは主人公にこの世界はゲームだと告げ、さらに自分はこのゲーム世界を壊す為に作られたウイルスだと説明します。

ミルドラースは世界をハックして操作し、キャラクターのテクスチャーを剥がして真っ白にしたり、キャラ同士のコリジョン判定を消したり、やりたい放題。
ついでに主人公にゲームになんて没頭してないで「大人になれ」と説教も垂れる始末。
お前が言うな! 一番大人げないからなお前!

 問題のラスト、事前に聞いてはいたけど、こんなに唐突なの!?って驚きの連続でした。
もちろん悪い意味で。

ここで、主人公は現実世界の自分の事を思い出します。
ドラゴンクエストが好きだったこと。
アミューズメント施設にドラゴンクエストVRを遊びに来たこと。
プレイ前に「フローラと結婚する」と自己暗示をかけたこと。
幼少期の冒険を設定でスキップしたこと。
娘の存在もオプションでカットしてたこと。
・・・・・・お前、本当にドラクエ好きか?

 
まあ、主人公は主人公なりにドラクエが好きなので、ミルドラースに対抗しようとします。
でも、ここまではなよっとして頼りない印象だった主人公が急に「この世界は俺にとっては現実だ!」と勇ましくなるのがすごく違和感。
性格も変わってるし、ドラクエへの思い入れもよく見えてこないし。
つーか、そう思うんだったら、娘を抹消したお前の価値観ヤバくない?
バーチャル水子に祟られろ。

で、こんな無茶苦茶なミルドラースをどうやって倒すんだって思ったら、
スラりんの正体はアンチウイルスプログラムでした!
スラりん(CV.山寺宏一)からロトの剣の形をしたワクチンを受け取った主人公が、一振りするとミルドラースは消滅!めでたしめでたし!
舐めてんのか。

お前、駄目なろう小説でも大ボスくらいはもっとまともな手段で倒すぞ・・・・・・。


百歩譲って、この展開を肯定するとして、スラりんのポジションがフローラじゃ駄目だったのか。
なんか伏線っぽい力持ってたじゃん! フローラなんだったんだよ!

 

釈然としない観客は置き去りにしたまま、平和になったドラクエ世界の故郷を目指し岐路につくリュカ一家。
リュカは家に帰りついた時にこの冒険が終わってしまう事を知っているため足取りが重い。
そんなリュカを元気づけようと、ビアンカが「早く帰りましょ!これからどんどんアルスは可愛くなるんだから!」みたいなことを言うんですよ。
ビアンカにもアルスにも未来が無いの知ってるし、ラストでそんな台詞聞かされると後味悪いんですけど!

というか、ゲーム世界だってバラされるのが突然すぎて、鑑賞中に感情の置き所がわからなくなって反応に困る。
どういう気持ちで観るのが正解なんだ?


とりあえずざっと映画の展開を速足で振り返ってみましたが、ラストを除いて考えてみても、改めて尺が全然足りなさすぎると感じます。
怒涛の勢いで話が流れていくから、ラストを除くとDQⅤの要約ムービーみたいに感じます。
さらに尺が足りなさすぎる弊害で、テンポに緩急が無くて場面場面の印象が薄いんです。
映画にはあえて観客に忍耐を強いるようなタメの時間や、何か事件が起こる前の予兆のようなシーンが必要だと思うのですが、この映画にはそれがありません。
軽快なアクションシーンは確かに出来が良いと思うのですが、そればかり続けざまに見せられても飽きてきますし。
ゆえに話が平坦で抑揚が無いと感じられてしまいます。
だから本当にDQⅤのダイジェストムービーなんですよね。
更に言えば設定の根幹部分で大規模な改変もありますし、DQⅤ風のダイジェストムービーというのが妥当なところでしょうか。

余談ですが、一緒に観ていた友人は映画の設定改変についてセンスが無いとしきりにこぼしていました。
特に母親のマーサが天空人にされていたり、グランバニアが出ないのに主人公の名前にグランバニアがついているのが気になっているようでした。

 

というかですね、ラスト以外のドラクエ部分見てて思ったんですけど
RTA走者御用達のbiimシステムで枠作ったら面白く観られるんじゃないですかね?
話の端折り方が完全にRTAのソレ。

いっそのこと、Blu-ray特典のオーディオコメンタリーはbiimシステムで横に山崎監督や堀井雄二氏のコメントを字幕で表示したらいいと思うんですよ。
なぜ、どこそこのイベントを省略したのかとかの、監督本人による弁明チャート解説とか入れてくれたら面白い。
そんぐらいやってくれたら俺ソフト買います。

メタオチが悪いわけじゃなくて、監督のセンスが無い

 そしてやっぱり、最後のどんでん返しですよ。

ほぼ伏線もなく、わざわざドラクエでやらなくていいものを持ち出してきて、解決方法はドラクエ外のアンチウイルスソフト・・・・・・。
典型的なデウス・エクス・マキナですよね。

デウス・エクス・マキナとは - コトバンク

古代ギリシャの手法ですよ? 紀元前から使い古されたオチを持ってきてドヤってるの滑稽すぎるとしか言いようがない。
つーか古代ギリシャですら強引すぎるって批判されてたらしいぞ。

デウスエクスマキナにはデウスエクスマキナをぶつけんだよ!と言わんばかりに、ゲーム世界を破壊するウイルスにアンチウイルススライムをぶつけて大団円って言われても反応に困る・・・・・・。
こんなもん、子供がやる遊びでの「絶対どんな攻撃も通さないバリアー!」と「絶対どんな攻撃も通さないレーザーを貫通するレーザー!」の応酬みたいなもんで、幼稚園でやってろ!としか思わないんですよね。
もしこれが斬新な発想だと本気で思ってるのなら、もはやクリエイターとしてどうかしてるとしか思えない。

とはいえ、温故知新という言葉もありますし、人間の根本には普遍的な部分があるから、手法的な古さは目を瞑るとしましょう。
唐突な逆転要素で胸が熱くなれる安い感性を身につけている前提で話を進めましょう。


この映画のクライマックスに足りない物は大きく分けて二つあります。
・ゲーム世界に愛着を抱きたくなるような物語構成
・主人公のゲームに対する姿勢の描写

さて、まず物語の構成ですが、上で長々と述べたように、ゲーム世界に愛着なんか持ちようがないくらいに端折ったダイジェスト構成でした。
この映画で力を入れているビアンカやフローラ、子供であるアルス、挙句の果ては主人公に至るまで、人物描写に厚みが足りなくて感情移入が難しい
ゲームをやってる人が各々のプレイ経験や想像で当てはめて補完すれば何とかなるかもしれませんが、少なくともこの映画単体だと非常に厳しいと言わざるを得ません。 
ビアンカという記号、フローラという記号、息子という記号・・・・・・。
そういったキャラクターとしての名前や記号を置くだけで精一杯で、それ以上の何かが伝わって来ないのです。
登場人物の言動一つとっても、いかにもアニメ的なテンプレ反応や、使い古されたコミカル描写が多すぎて、既視感しかなく、いかにも作られたキャラクター感が拭えない。
悪い意味でフィクションじみすぎている。

次に主人公にとってゲームとは? ドラゴンクエストとはなんなのか?
この部分も映画で知れる情報は断片的なものでしかありません。
第一、ドラクエ世界がゲームだと明かされるのが終盤も終盤なので、そんな描写入れようがない。
だから、主人公のドラクエへの思い入れが窺えるのは、僅かなナレーションと、畳の上でDQⅤを遊んでいるシーン、せっかくのDQVRなのに幼少期を容赦なく飛ばし、娘の存在をオミットできるプレイングスタイルだというのがわかるぐらいしかありません。

せめてゲーム世界の人物描写が軽薄でも、主人公にとってドラクエが死ぬほど大事なゲームだとわかる場面があれば、ミルドラース戦で主人公を応援したくなる気持ちが生まれるんですよ。
でも、この映画単体ではとても応援したくなるような気持ちにはならない。
(まあ応援したくなったところで、ロトの剣で一閃ではアレなんですが・・・・・・)

百歩譲って“主人公はドラクエを愛する観客自身の投影”としたところで(残念ながら自分はそういった人種からは外れてしまいますが)、先述のように主人公自体がペラペラで、感情移入が出来ないんですよね。
リュカは物語のほとんどでなよなよしてて、ほとんど流されるままに行動している癖に、終盤になると急に勇ましくなったりして、主人公に芯が無いから親近感が湧かない。

 

結果として、「今まで見てきたゲーム世界が崩壊の危機に敢然と立ち向かう主人公」というクライマックスの構造を、崩壊するゲーム世界を前にハラハラもしなければ、主人公を応援したくもならず、完全に部外者として冷めた目線で見てしまうんですよね。
ドラクエ世界はただのデータではない”という付加価値を観客に見せつけてなければいけないのに、それが出来ていない時点でもうこのラストの展開はどうしようもないんです。

 

こんな状態でラストにミルドラースがゲーム世界を破壊しようとしたところで、じゃあ壊せば?以上の感想を持ちようがない。
それ以前に、ウイルスがたかだか一回のゲームプレイ体験を破壊したところで、ドラクエというゲームがこの世から抹消されるわけじゃなし、もう一回ドラクエ遊びなおせばいい話ですしね・・・・・・。
逆に言えば、映画内での家族や仲間たちをかけがえのない存在だと思わせることができていれば、まだ勝機はあったと思います。
だからこそ、絶対にダイジェストムービーじゃあ駄目なんですよ。


ところで、「DQ YSはメタフィクションオチだから駄目」という風に雑に言われることがあります。
(脱線しますがDQ YSは厳密にメタフィクションかというと少しズレます。この記事内でのメタフィクションは作品内で“現実世界”と“仮想世界”の二つのレイヤーを持つもの、という意味での広義のメタフィクションということで)
はたしてそうでしょうか?

映画でもメタフィクションを描いた作品は山ほどあります。
名作映画と言われるものも少なくありません。

ただ、主流としては序盤の方で世界がフィクションだとバラしてしまって、現実世界と仮想世界で対比させつつ話を進める方式が一般的だと思います。
(というか、現実的に考えてそうしないとなかなか物語のバランスが取れない)

こういうタイプの作品でパッと思いつくのはダークシティとかマトリックスとかトゥルーマンショー』とかですかね。
これらはきちんと「主人公が仮想世界をどのように捉えてどうしたいのか」がきちんと描かれています。

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登場人物が第四の壁を破るタイプのメタフィクション作品だと『フェリスはある朝突然に』『ファニーゲームなどがあります。
(これは本来の意味でのメタフィクションですね)
これらはきちんとメタな演出を活かして構成された作品です。

『フェリスはある朝突然に』はデッドプールで盛大にパロディされてましたね。

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そして第四の壁を破る映画として外せないのが素晴らしき日曜日』 (1947年)!
黒澤明監督の作品です。
実に昭和22年の作品ですよ!
こんな前からメタな作品というのは存在していました。
ヒロインが観客に向かって拍手を呼びかけるシーンが映画の山場になっています。
改めて、2019年にもなって、メタなオチというだけでドヤ顔で公開されたDQ YSがどんだけ浅はかかってことがわかりますね。

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同じくゲームを描いた作品だと、比較的新しい作品で『レディ・プレイヤー1』 がありますね。(これはメタフィクションという風には描かれていませんが)
この作品はテーマこそ少し疑問符が浮かぶものの、圧倒的な映像でゲーム世界を描写し、夥しい版権キャラの物量で押しつぶす、素晴らしいエンタメムービーになっています。
ゲーム世界という設定の強みを最大限に活かした作品ですね。

 

このように、フィクション世界を描いた作品やメタなネタを扱った作品は山のようにあって、どれも一工夫して作られた作品ばかりです。
この世界はフィクションでした、というオチだけではあまりに弱いということをみんな知っているからこそ、あの手この手で苦心して作品を作っているのです。

 

じゃあDQ YSと似たような衝撃のラストを迎えるのが駄目なのか?というと、それですら違います。
そんな映画の一つに深作欣二監督の蒲田行進曲(1982年)という映画があります。

この作品もラストが不評だったかというとそうではなく、大好評でブルーリボン賞日本アカデミー賞を獲りました。
大規模な宣伝でヒットしただけ、と揶揄されることも多い角川映画にあって、内容面で評価が高い一作になっています。
いまこの作品をネタバレしていますが、この映画はネタバレしても問題ないと思います。
映画撮影所を舞台にした作品なので、ラストのシーンも一定の必然性をもって迎え入れることができる内容となっています。
きちんとお膳立てされているわけですね。
とはいえ、ラストの解釈自体も人によって別れる作品なので、是非とも実際に観て各々で色々と考えて頂きたいところ。

他にもアレハンドロ・ホドロフスキー監督のホーリー・マウンテン(1973年)という映画もあります。

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これはもう酷すぎるオチで、ラストで「実はこれは映画の撮影だったんだよ!」ってバラすとカメラが引いてスタッフが映る・・・・・・という最悪なオチなんですが、それでも現在カルト映画として根強い人気がある作品です。
というのも、オチを差し引いても強烈な映像的イマジネーションを持った作品でして、映像作品として鑑賞に堪え得る、少なくとも記憶には残る一本だからです。
(とはいえ、この監督の作品は人を選びすぎるのですが……)

 

メタなオチを通すのであれば、物語に「強度」が必要なんです。
この強度っていうのは、脚本であったり、テーマであったり、映像美であったり、物語を構成する要素の強さです。

でも『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』にはそれが無い。
あけすけに言ってしまえば、DQ YSはオチがどうこうの話の前に、面白くないんですよ!
メタフィクションオチをやるならフィクション部分を目いっぱい魅力的に描かなければならないのに、根本的にそれが出来てないですし。

「たとえゲームの中の物語でも、自分にとっては現実だ!」という主張を通したいならば、 ゲーム世界と現実との対比は必要じゃないですか?
現実世界はこうだ、そしてゲームから自分が受け取ったものはこれだ、だからゲームもかけがえのない現実の一部なんだ。
そう言いたいなら、きちんとその部分を描かないと駄目なんです。
まあ要するにまるで駄目なんですわ。

 

なので自分の見解を述べると、ドラクエ関係なしに一本の映画として実に退屈でした。

独り善がりのオチを削ってドラクエ映画として完成させていれば、尺が無い中で健闘した映画、ぐらいには同情して観られたと思うんですけどね。
脚本も兼ねている山崎総監督はもとより、監修の堀井雄二氏も、こんな一発ネタで観客を面白がらせられると思っていたとしたら、ちょっと観客舐めすぎなんじゃないかって思います。

ところで、映画が終わった後でDQⅤのあらすじを教えてもらったんですが、聞いてるだけで面白いストーリーじゃん!ってテンション上がりました。
DQⅤってビアンカ・フローラ(たまにデボラ)論争ばかり聞こえてきて良く知らなかったんですが、父の足跡を辿り、志を受け継いでいく物語でもあったんですね。知らなかった。
まあ映画ではパパスの話はほぼカットなんですが!
なんか強そうなオーラ出してたけど「ぬわーっ!」つってすぐ退場したもんね!

 やっぱり題材でDQⅤ選んだのが最大の失敗なんじゃないかなって思います。
あらすじ聞いてるだけで2時間に到底収まる話じゃないですし。

ゲームとしてのドラクエ世界を出すんだったら、それこそよりプリミティブ なゲームとして初代DQを題材にするか、マルチプレイDQ Xあたりにしとけばよかったんじゃないかとずーっと友人がボヤいていたのが印象的でした。
映画観終わった後2時間ぐらい言ってましたよ。

まあ、この映画を観たおかげで原作のドラゴンクエストⅤは面白そうだなって思えたので、せっかくだから原作遊ぼうかなって思います。

ところで、年末に公開予定の同じ山崎貴監督・脚本の『ルパン三世 THE FIRST』は大丈夫なんでしょうか。

lupin-3rd-movie.com

実はルパン三世なんていなかった・・・・・・なんてオチだったらどうしましょうね。