バンクシーの絵を取り巻く話と落語『はてなの茶碗』似てるなあという話
なんとなく今日、落語の『はてなの茶碗』を聞いてましたら、ふっとバンクシーの絵の話を思い出しました。
まず『はてなの茶碗』がどういう話か大まかに説明しますと、
京都に目利きの茶道具屋・金兵衛、通称「茶金」という人がいました。
どのくらい目利きかというと、茶金さんがすっと指差しただけで、その道具に十両の価値がつくという話すらあるほど。
ある日、その茶金さんが清水の音羽の滝近くの茶屋でお茶を飲んでいましたところ、手に持った湯呑茶碗をためつすがめつ、しまいにはひっくり返してまで眺め、はてな、と一言残して去っていきます。
それを見ていた行商の油屋。
茶金があれほど興味深そうに見ていた茶碗はきっと値打ちものに違いない。
指差しただけで十両なのだから、ひょっとすると五百両、いや千両の価値があるかもしれぬ、と茶屋から大金を積んでその茶碗を引き取ります。
意気揚々とその茶碗を持って、件の茶金さんの店に持っていく油屋。
しかし、「これは清水焼の安茶碗で、一文の価値もない」とあっさり言われてしまいます。
ではなぜ、あんなに熱心に茶碗を見ていたのかと尋ねると
「この茶碗でお茶を飲んでいるとポタリポタリと中身が漏る。じっくり眺めてみてもヒビも無ければ釉薬にも障りが無い。不思議な事もあるものだ、はてなと思って見ていたのです」
とのこと。
落胆する油屋ですが、茶金さんは「油屋さんは茶金の名を信頼してこんな茶碗を買った。いわば自分の名を大金で買ったのだから損をさせるわけにはいかない」とその漏り茶碗を買い取ります。
茶金さんがこの一連の話を語ったところ、次第に評判を呼び、ついには帝の耳にまで入ってしまいます。
実際に茶碗を見た帝の手によって、“はてな”と箱書きがされ、思いがけず価値がついてしまった湯呑茶碗。
さらにこの噂を聞き及んだ豪商の鴻池が、その茶碗を千両で買い取りたいと申し出ました。
ただの漏れ茶碗が本当に千両に化けてしまったのです。
茶金さんは、「もともと油屋が持ち込んだものだから」と半分の五百両を油屋さんに渡しますが、これに味を占めた油屋。
後日、店の前が騒がしいと茶金さんが様子を見に行ったところ、そこには大勢を引き連れてなにやら重そうな物を運んできた油屋の姿が。
「今度は水瓶の漏るのを見つけてきました」
『はてなの茶碗』は、普通の茶碗がエピソード込みで価値が出るっていう話で、欲目を出した油屋がそのエピソードの部分をすっ飛ばして水瓶を持ってくるっていうサゲなわけですね。
さて、バンクシーの絵の方ですが、つい先日オークションで競り落とされた途端に作品がシュレッダーにかけられるというパフォーマンスが大いに話題を呼びました。
で、案の定と言うか、そのパフォーマンスを真似て、手持ちのバンクシー作品をズタズタに引き裂いた人間が出たそうです。
当然ながら、その行為で約600万円ほどの作品の価値が瞬く間に紙切れ同然に。
シュレッダーで刻まれた作品が話題になってるから、自分の持ってる作品も刻んだら価値が出るやろ!っていうノリ、完全に落語だなあって。
なぜ話題になったかの部分を理解しないで模倣する感じがすっごいそれっぽい。
自分は落語にそれほど詳しいわけではないのですが、落語の話が面白いなって感じる時って、馬鹿な奴が馬鹿なことやってるのを聞いて笑いつつも「あーこういう奴いるよな」って共感する部分なんですよね。
もちろん落語の登場人物って誇張されてはいるんですけど、芯の部分はみんなが持ってる人間の愚かな部分を捉えてて、そこが普遍的な面白さに繋がっているといいますか。
人間って変わらねえなあって部分がじんわり面白い。
ところで元々『はてなの茶碗』って十返舎一九が1812年に刊行した『世中貧福論』収録の「宿駕籠の寝耳に水の洩る茶碗の掘出し」っていう話だそうです。
油屋が水瓶を持ってくるサゲの部分は落語になるにあたって追加された部分のようですね。
このお話を落語に落とし込んだ人も、人間ってこういうことやるよなって想像しながらサゲを考えたんでしょうけど、まさか2018年に似たようなことをやる奴が出てくるなんて想像もしてなかったでしょうね。
バンクシーが作品をシュレッダーにかけたおかげで、『はてなの茶碗』がより一層深みを増した気がします。